『ぱふ』1982年12月号  雑草社

人と人とのふれあいみたいなものを描いていきたいんです。
今月は、この4月よりフリーになって、大活躍の河あきらさんにインタビューさせていただきました。想像していた以上に、はるかに若々しかった河さんは、ちょっとテレ笑いを混じえながら、質問に答えてくださいました。では、ごゆっくりお楽しみください。


――ここのところ、かなり色々な雑誌で作品を発表されていますが。
河 
ええ、今年の4月でフリーになったものですから。
――7月はかなりたてこみましたね。月に3本も載って、びっくりしました。
河 
1ヶ月ぐらい先行していたんですけどね。2月ぐらいから準備をしていて、きつい時は20日で1本ぐらいのペースでやってたけど、他の人に比べりゃ時間かけてやってたんじゃないかな。でも、確かに、発売日が2日違いで出たりして、自分が今までやった事のない出し方だから、どんなもんだろうと思って。わー、すごい。売れっ子みたいとか言いながら、計画たてて(笑)。
――フリーになった心境は?
河 
その時は、ごちゃごちゃ考えたんですけれど、今は、なんかこの方が普通みたいになっちゃって。ただ、やっぱり今まで別マの方で、1本描いてそれだけに神経集中させていればいいような描き方でやっていたものだから。2つ一緒に描くのは、多少無理かなって気持ちもありますね。

いらかの波はなんとなく始まって。●代表作『いらかの波』について、苦労話あれこれ。
――『いらかの波』のお話を伺いたいんですが、あれは初めから、あんなに長くなる予定だったんですか?
河 
いえ、最初4回で、その後5回で、1年になって、気がついたら10巻ですね(笑)。
――あの時点では、それまでの作品とはちょっと、変わって来たな、と感じたんですけれども。
河 
あんまり、変えた、という感じはないんですけれど。ただ、あの新しいキャラクターが、まあこういう顔というので、今までのテンポとちょっと違う感じにしたかったというのはあって、『あしたのジョー』20巻買い込んできて、読んだりとかしましたけど、結局それがどう生きたって感じでもないし。
――じゃあ、初めからあれだけ長くなる心構えというのはなしに?
河 
なんとなく始まったんですよね。あれ。で、冗談で連載1回目の最後で、生徒会長にカーテンをまかせて、「フッフッフッ」とかやってしまって。あの時は、こっちが修羅場のヒステリー状態で、笑いが止まらなくなっちゃってて、何描いても笑っちゃう感じだったんです。で、生徒会長を描いてる時に、やたら可笑しくなってしまって、1人でケラケラ笑いながら描いてて(笑)。その辺が印象に残ってしまったのと。後、その時の担当さんが生徒会長が脇役じゃもったいないとか言い出して、本当は第三者のはずだったのに、いつの間にか彼が副主人公になってしまった(笑)。あれも、連載が終われなかった1つみたいな感じが(笑)。
――あの生徒会長のキャラクターで、シリーズとしての人気が出てしまったというのもあるんじゃありませんか?やっぱり連載が続いている中で彼が出てくる部分が、スパイスみたいな役割をして。
河 
なんら新しいキャラクターじゃないはずなんですけどね。ただ、ああいう人って、普通もっと第三者でしかなかったと思うんですが、こっちでずーずーしく副主人公にしてしまったから、読者の方にも覚えてもらえたんじゃないかなって思うんですけど。
――では『いらか』はだんだん伸びていった訳ですね。
河 
ええ、なんか途中から変な意地みたいなものが出てきて、10巻までいこうか!とか言って(笑)。
――そういう形での苦労ってありましたか?
河 
ありましたね。かなりやめようよ、やめようよって言ってた時期もあったし。大体、中学生だから天衣無縫に登場させられたような所があって、それが高校時代になると、いろいろな制約が出来てきちゃうでしょ。そこで、またドタバタやってたら全然進歩がないし、という感じで、渡がおとなしくなってしまったんですね。でも、なんか、そういうしがらみが出来ちゃった感じで、無理してドタバタになったり、建築クラブとか出て来て気違い的になったり。収捨がつかなくなってしまって。やっぱり、知り合いはじめた時の方が、キャラクター達はみんな元気でしたね。なれあいになってしまうと。
――どの辺で終わらせようと思ったんですか?
河 
最初4回か5回で終わるって時は、大工になるぞって感じと、あの引き取られた小林さんという家庭で血がつながってなくても親子関係はあるんだって所でしめくくるつもりだったんですが、結局、渡の日常を追いかけていくような、学園マンガというか、日常マンガになってしまって。だから、最後は茜と仲良くなって、将来への目標みたいな、足掛かりをきっちりつかむって所で終わらせようという感じで、あとは毎月毎月学校の年中行事を調べながら(笑)。
――終わる時は、どういう感じでしたか?
河 
あれは、2部描いてる時、すごくしんどくて、いつ終わるかわからない形で仕事をしてたんですね。3部になって、それで終わるというのが決まってたので落ち着いて描けました。
――初めっから終わることがわかっていて、配分して描けた訳ですか?
河 
そうねぇ。「ラストはなんですか?」「大団円。」っていつも言ってた(笑)。
――どっちかと言うと、ずうっと描いて、あのまま年をとっていったら面白いと思っていたんですが。
河 
コワイですね。あの目玉で(笑)。
――成長した姿というのは、描きづらいですか?
河 
ちょっと、こちらが気分的に離れてしまうんじゃないかって気がします。やっぱり、子供と言うか、中学2年生くらいが一番制約なく、それでいて子供と大人の中間という感じで、こちらの記憶でもそのあたりが一番いろいろなものを吸収できたように思うんです。大人が、そんなこと考えてるのって驚くような考え方も、その時期に一番していたような気がする。で、こちらも描き易い丸顔ですむし(笑)。長い顔が苦手なものですから。
――でも、わりとシリアスを描いていた時は、長い顔が多かったのでは?
河 
『故郷の歌は聞こえない』ってありましたでしょ。主人公がやつれてるんですよね、あれ(笑)。
――無理して長くしようとするから。
河 
そうなんです。もともと、こちらは手塚治虫先生とか石森章太郎先生を見て育ってきたクチだから、今風の長い顔っていうのは、ほんと苦手なんです。皆さん、ちゃんと時代に合わせて変えられているようだけど、その辺、こちらの性格がしつこいみたいで(笑)。やっぱり『ミュータント・サブ』とか、あの時代の絵柄が残っていますね。年もあるのかもしれないけど(笑)。

やっぱり石森先生の影響が、●石森章太郎さんの『漫画家入門』を読んで、マンガを描き始めたという河さん、やはりその影響は――
――デビューして、2、3年の頃の絵柄はかなり、石森章太郎さんの影響みたいのが感じられますね。
河 
そうですね。あのミュータント・プロという、『墨汁三滴』という同人誌を出しているグループがあって、その本を石森先生に見てもらっていたんです。そこに3年くらい、会員で入って好きなように描かせてもらっていました。結構、適切な批評をしてくれる人達がいて、そこでしごかれたって感じですね。石森先生が名誉会長で、名誉副会長に松本零士先生とかいらっしゃって、2カ月に1回ぐらい、肉筆回覧誌を作ってたんです。製本も、わりと面白がって趣向を凝してみたりして、出来上がると、東京の会員がいろいろな先生のところを回って批評していただくんです。私みたいな地方会員は、作品送って本が届くのが楽しみで、まあ、受け身の形でしたけど。
――『わが同志!』に、そのあたりの事がかなり描かれていますね。
河 
あれは古傷です(笑)。あれはスランプで出来た話で、本人は全然そんなつもりはなかったんですけど、ああいうの描くのは大体スランプなんですね。だから、今見ると恥しい。
――ファンにしてみると、とても面白くて、続きはいつになるだろうと、ずっと思っていたんですが。
河 
もう描きません。結局、創作をしなければならないのが、内輪のものだけ使うというか、自分を食べちゃう感じなんですね。あれを描いている時って、私はこんなに苦労した、偉いんだぞ、みたいな感じで、自己満足みたいな形になってしまって。やっぱり、そういうものをストーリーとして公に出すのは、もっと作った部分というのが必要なんじゃないかと思います。自分だけ納得させるために、公共の場を使ってしまったような感じで、やっぱりちょっと、まずいんじゃないかと思って。一番身近な人達が、あれはスランプだから描いたんだって風に、こちらに教えてくれて、はじめてああそうかって思いました。言われてみれば、恥しい部分がかなりありましたから。

男の兄弟に対するあこがれが、●青年と小さな女の子というモチーフは、河さんの作品に多く見られます。「空の色…」、「あなたは笑うよ」…
――その後、4月号から『故郷の歌は聞こえない』が初めての連載でしたね。スパイ物という、ちょっと異色な。
河 
ええ、長い話のストックというのが、あれしかなかったんです(笑)。中学時代に描いた小説だったんですが、丁度あの時、それまで女性の担当さんだったのが、初めて男の人に変わったところで、連載をどういうテーマで始めようかって時に、実は中学生の時に描いたスパイ物の小説なんだけど、長い話のストックってこれしかないんだって、持っていったんです。大学ノート1冊あって、すごく恥しいところとか、稚拙な文面もかなりあったのに、それをその担当さんが飽きもせずによく読んでくれて、じゃあこの形体でいきましょうかってことになって。かなり少女マンガにしちゃ変な話だったと思うんですけどね(笑)。
――初めての連載という意味での苦労などありましたか?
河 
その前に、『忘れな草』という100pの前後編をやってて、その時に2・3を前編につっ込んで、1・3を後編でやりなさいって教えられたんですね。だから連載だと、どこまで出しおしみしていいものか、その辺のかね合いが難しくて。果たしてここまで出しちゃったら、ラストまで話が入るかしらとか(笑)。だからまあ、中学時代に描いたってモトは後半違っちゃいましたけどね。そのまま描いたら話にならない。
――中学の時の話は、どういうお話だったんですか?
河 
逃亡したスパイっていうのは、同じだったんだけど、出会うエピソードなんかがかなり違って。年頃の女の子なんて出て来ないんですよ。幼児かおばさんか、だから地味な話でした。
――恋人とか、そういうのもなくて?
河 
やっぱり、それ書いた時って石森先生の読んでた時期でしたからその影響が強かったんですね。小さい女の子が出て来て、お兄ちゃん的な主人公がいて、そういう精神的なプラトニックなつながりみたいなのが、かなり好きだったから。それの影響をかなり受けてたみたいです。
――わりとそういう話って多いみたいですね。『空の色の童話』なんて、かなりイメージに残っていますけど。
河 
描きやすいんです。こちらが姉1人だったもので、男の兄弟に対するあこがれみたいなものもありますし、お兄さんがいたらいいなぁって感じで。そこら辺もあるんじゃないかと思います。

B・Aシリーズは、かなり本音で。●『いらかの波』とともに、ファンには忘れられない作品が、このBAD・AGEシリーズ――
――BAD・AGEシリーズがありましたね。あれはシリーズとして描き始めたきっかけみたいなものはあったんですか?
河 
『赤き血のしるし』が、一応シリーズの第一作なんですね。初めてシリアス描かせてもらった時で、最初シリーズとか全然考えてなくて、ともかくシリアスが描きたかったんです。それの前に『雪のマフラー』っていう、原作つきのシリアスが1本あったんですが、オリジナルを自分で描きたくって、ストーリーを持っていくと、別にこちらは太陽族とか、あの手の映画を見たことはなかったんですが、何故か“さすらいの渡り鳥”という雰囲気になっちゃって(笑)。タイトルからしてそういう雰囲気だとか言われて、それでも、まあちょっとわがまま言わせてもらって、やらせてもらったのが『赤き血』だったんですね。で、まあ地味な話で、どうかなとも思ったんだけど、結構それを応援してくれた読者の人達なんかもいて。その次に、『木枯らし泣いた朝』っていうシリーズとは無関係のシリアスを描いて、その次の『ゆがんだ太陽』のあたりから、BAD・AGEシリーズとか言いだして(笑)。今で言うツッパリでしょうね。当時はまだ暴走族なんてなかったし、あったとしてもマスコミにのらなかったから。時代がズレてたら、その手の話になってたんじゃないかと思いますね。
――そうですね。あの話では、ヤクザがからんでくる訳ですから。
河 
まだ、こちらの中にも学生気分と言うのが、かなりあった時期だったから。回りにいる人達がみんな大人だったんですよね、こちらから見て。こちらも成人はしていたんだけど、いわゆる大人ってものに対する、まだ「こっちの気持ちがわかってくれない」みたいな、不完全さみたいなものを感じて、ああいう話になっていったんです。だから、ある程度年食ってきて『さびたナイフ』の前後あたりになってくると、ちょっとこちらが気分的に落ち着いてきちゃった感じで。まあ、もうその辺で、若さがなくなってきちゃったんでしょうね。多少(笑)。だから『さびたナイフ』で集大成にしようかなって感じで、あれがラストです。
――『さびたナイフ』ではラストで、数年後という形になって、大人になった主人公が出てくる訳ですが、やはりそういうつもりで?
河 
そういう感じですね。あの頃はあの頃、今は今。あの頃はあの頃で生きていた、みたいな気分がこちらの中にもありましたから。すごくシリアスに構えて(笑)。
――『ゆがんだ太陽』から『わたり鳥は北へ』、『太陽への道』が、3部作みたいな形でありましたね。最後に、『太陽への道』で数年後の話になるのも、やはり大人になるという意識で描かれたわけですか?
河 
あの時は、まだその気分が半分半分って感じだったんです。『空の色の童話』の時に、主人公にそろそろ大人になりかかっているセリフを言わせて、『さびたナイフ』にいたるという形にしたんです。『空の色…』で「ツッパリも社会に出たら通用しないぞ」みたいなセリフがあって、そのセリフにいたるまで、まだその気はなかったんですね。ところが描きながら、そこのセリフにきた時「あ、そろそろ終わりだな」って感じがして(笑)。
――はじめは、そういうつもりじゃなくても、描いている内に、でてきてしまった訳ですか?
河 
すごく、その辺簡単に決まっちゃうみたいで。
――作品を書きながら、自分の気持ちを確かめていった、という感じで?
河 
そういう感じがありますね。行きあたりばったりとも言えますけど(笑)。
――BAD・AGEシリーズの頃って、すごく作品が、読者にも、作者にも近い感じの同世代感覚みたいなものがありましたね。
河 
こちらが精神的にあまり成長していなかった気分があって。今の人達って精神的成長が早いですからね。だから、こっちが遅れている分と、世の中の進んでいる部分とがかみあったのかしら。
――それ以前の作品は、わりとコメディとかエンターティメント性が強くて。
河 
コメディの時は、商売と思ってやってました。コメディにすれば本に載せてくれるという感じがあったし、描いてる分には楽しんで描いてましたから。だからシリアスになって多分本音っぽい描き方に変わったんです。こちらも、かなり自閉症的な性格だったもので、『赤き血…』みたいな。友達が欲しい、友達が欲しいというテーマは、本当にその自分の気持ちを願望も含めて描いていたような感じがありますから。

中学の頃はほんとの自閉症でした。学生時代、デビュー、そして今へ――
――学生の頃って、こういうドラマチックな生き方をしていたんじゃない訳ですね。
河 
全然ないです。中学の時は、かなりほんとの自閉症だったんです。それが高校時代になって、クラスの人達とはあまりつきあいがなかったんだけど、クラブの方でたまたま似た人種が集まってしまって。丁度『わが同志!』に出てきた美術クラブ三羽烏みたいになって(笑)。一応女子高だったんだけど、女子とは言い難い連中が集まって、淑女達の中をモップ持って校内走り回ったりとか…(笑)。高校になってはじめてマンガを知ったんですね。その辺で安易にマンガ家になろうかなって気分になって。他の人とは違うことをやっている、将来の夢みたいなものを、自分は一足先につかんでいるみたいな、自信のようなものが出てきて、その辺で性格が変わってきたみたいですね。
――それで、高校卒業と同じくらいにデビューして東京へ出て来られた訳ですね。
河 
高3の正月か、暮れに投稿したのが、3月発売の本でデビューできて、だからまあデビューしたんだから東京へ行ってくるよって感じで、親を説得して上京しました。そうじゃなかったら、1年間近所の本屋ででも働いて、その後で自分の将来を考えるって、親に交換条件を出そうと思ってたんです。たまたまラッキーでした。
――出て来た時は、どういう生活をしていたんですか?
河 
出てきた時はルームメイトがいたんですが、その後一人暮らしで、一応ネームを作っては送り、ボツになり、また作るというくり返しでした。最初、阿佐ケ谷に下宿してて、高円寺の方でアルバイトをしてたんですが、その内編集部の方でアシスタントの口を紹介してくれて、忠津陽子さんのところへ行ったんです。それから、大和和紀さんが、そのアパートの隣り同士だったもので、だんだんかけ持ちになってきて、でも、当時はアシスタントと言っても、仕事はベタくらいしかなくて、1週間に1回くらいの仕事なんですね。だから、空いた時間で、喫茶店のパートタイムで働いたりして、社会勉強とか言いながら(笑)。けっこう優雅にま、ちょっと寝られないだけの気楽な生活をしてました。
――自分の仕事で忙しくなったのは、いつ頃からですか?
河 
アシスタントの方も2年くらいやってたし、毎月仕事があっても、今みたいにきゅうきゅうしてなかったですね。初めて、自分の作品でベタやってもらったのが『赤き血…』だったけど、それもまだ正規のアシスタントじゃなかったし、『ゆがんだ太陽』の時は、あの頃ささやななえさんとかなり親しかったから、彼女に手伝ってもらったりとか。結構、なんとなくやってたんですよね。そう言えば『さよならあまえっ子』って作品で、あの時は、ネームがなかなか出来なかったんですけど、編集部へ電話して「カンズメにしてくれないと私はどこかへ逃げる!」って自首して出たんです(笑)。その辺が一番忙しいと言えば、忙しかったかしら?
――昔、1週間徹夜したことがあるって伺いましたが?
河 
あれは『渡り鳥…』の時で。あまり計算せずにこつこつやってたら、まあ、机の上でうつぶせになって1時間位寝てたことはあるけど、仕事が終って計算してみたら、私1週間寝てなかったわって(笑)。体の方は、わりとしゃっきりしてましたけど、若かったんですね。

今、ふれあいみたいなものを描いていきたい。地味だけれども、それにかえがたいあたたかさ。それこそ、人と人とのふれあいから生まれてくるもの――
――今、アシスタントの方は?
河 
ええ、アシスタントと言うか、家のことをやってもらっているマネージャーみたいな人がいて、一種の共同製作みたいな形で。すずき由弥くんという(お隣に在席。)
――『あしたは日曜日』に出て来られた方ですね。
河 
ええ、あれは立場が逆転してましたけど。この人との出会いは本当に偶然で、編集部でたまたま彼女が遊びに来ていて、こちらが丁度忙しかったものですから手伝いに来てもらったんです。それから、ずっと…。
――お2人で描かれている訳ですか?
河 
いえ描くのは、私1人なんですけど、それをチェックしてもらうんです。だから、担当さんに見てもらう一段階前の関所がある訳で、そこが困難という(笑)。『故郷の歌は聞こえない』あたりから、そういう感じになってきて、特に『いらかの波』の頃なんかで、あれはキャラクターが増えすぎたものですから、やっぱり1人だけで描いてると、頭をすり抜けていっちゃうんですね。その辺を、担当さんとこの人におさえてもらって。
――『あしたは日曜日』は、わりと事実の部分もあったんですか?
河 
まあ、似顔絵は描きましたけど(笑)。ほとんど創作です。それまで30P以上のコメディって書いたことなかったんです。大抵、35Pか40Pになるとシリアスを描こうとしてたから。ただ、あの時は、前後にシリアスが続いてしまって、この辺でコメディをやっておかないと、と思って。でも、頁が長かったから、30P以上埋まるか心配になって、マンガ家の生態でも入れてやろうかと、冗談で(笑)。やっぱり30P以上でコメディやると楽屋落ちを入れてしまう。
――やっぱり、シリアスとコメディのバランスってとりますか?
河 
昔はかなり、やってても違っていましたね。シリアスの時は、「キザだ、キザだ」って大笑いしながら描いてて、コメディの時は適切な言葉が出なかったりすると、かなり暗くなって描いてました。
――片方だけ描いてるとストレスがたまりますか?
河 
ちょっと『いらか』が長過ぎた感じがありますね。その後、ちょっとどっちつかず的な作品になってしまって、いかんなーと思った。
――わりと、日常生活みたいなところを描いたような?
河 
人間的なふれあいをテーマにしてやっていきたい方なので。実際の恋愛には全然興味なかったりしてね。今も、その自分の主旨にずれたものを描いているつもりはないんですよね。13、4年やっている訳だけれども、毎度新鮮な気持ちで。原稿用紙の白いのが出てくると、すごくあがっちゃうんですよ。わっどうやって描けばいいのって感じで(笑)。「私、手が描けないんだったわ!」とか新鮮に感動している。
――これから、特に描いていきたい話というのはありますか?
河 
今のところは、今のシリーズを成長記みたいな形にしたいし、主人公が知りあうものとかと探っているところです。
――やっぱり『いらかの波』みたいな成長記を描いていきたいという感じで?
河 
成長記と言うより、ふれあいかな?だから地味だとは思うんですけど。

(インタビュー・1982.10.8/構成・中村公彦)

プロフィール・河あきら
 本名・小川まり子。昭和25年7月8日、千葉県東金市生まれ。中学3年の時、石森章太郎の『漫画家入門』を読み、マンガを描き始める。その後ファンレターをきっかけに、石森先生を名誉会長とする同人誌『墨汁三滴』に入会。約3年間そこでしごかれ、『COM』に作品を掲載された経験も持つ。1969年、高校卒業時に、別冊マーガレット4月号「サチコの子いぬ」にてデビュー。デビューを期に上京する。初期はコメディ路線に徹していたが、「赤き血のしるし」から始まった、若者の叫びを描くBAD AGEシリーズにより読者の共感を得るなど、シリアスとコメディの両方をこなす幅広い才能を見せる。'77年5月号より、「いらかの波」の連載開始。軽妙なコメディをまじえた展開により、主人公・渡の学園生活を描いていく自然なストーリーで好評を得、以後約3年半に及ぶ大ヒット連載となる。今年、'82は前半のデラックスマーガレットの連載「あめふり日記」を最後に、フリーとなり、今夏は、週コミ、プリンセス、月セと3誌連続登場という離れ業を演じて見せた。まだまだ期待したい人の1人である。

(原文まま)